「ホワイトカラー新時代3」

 さて、このホワイトカラー新時代特集がなかなか皆様に好評なので、もうちょっと続けます。実際この雑学コーナーをまとめていくのはホンマに大変なことなんですが、、、。

時代の変わり目で、何がどう変わっているのか、、、ということを取り上げてみます。
 「団塊の世代」と呼ばれる人達、、、現在50歳を超えた人々、、、戦後の高度経済成長を支えてきた人々、、、がそろそろ第一線から退く時代である以上時代が変わって当然なのですが、ここが分かると世の中が面白いくらいよく見えてきます。

 日本国内で、どこに行っても電話があり、自動車は誰でも乗れるし、新幹線は走っているし、テレビもどこでも映るし、、、当たり前なことですが、そうじゃない国から見れば天国のような国が日本なんですね、、、。それもこれも、日本を戦後の焼け野原から先進国にした団塊の世代の人々のおかげだと思います。戦後の日本は、「大量生産」を目指した。そして、その次は「規格」を作り出した。その結果、生産品だけでなく、すべてにおいて規格ができてしまった。偏差値教育、校則、考え方、生き方にまで、、、。部長は、課長より偉い、大企業は中小企業より上位にある。大蔵省は省庁の中で一番権力を持つ。などなど、これはすべて規格発想の現われです。

 だから、何年も会社に勤めて役職が得られなかった人は、規格から外れた、、、という見方になり、「不幸」な人生になってしまう。すべての尺度がこの規格中心なんですね。
いまだ、役付=偉い人、そして飲み屋で名刺を見せて威張る、、、という発想を持っている人は、団塊の亡霊に取り付かれた人です。

 おもしろいことに、皆さんご存知の秀吉が実は現代の団塊世代の発想と同じ発想で生きていた人、、、と言われているそうです。秀吉は、要領がよく与えられた仕事を器用にこなし、勤勉で、上から認められてのし上がった人ですね。要するにデキルサラリーマンと同じだったんです。秀吉の前の信長は、自分の尺度を持っています。自分勝手なイメージが強いのですが、そういう時代だったんです。だから、千利休などの出る幕がなく、どの料理がうまいか、どの茶碗がいいか、どの絵描きがうまいか、すべて信長が決めたのです。

 ところが、秀吉にはどれがいいか自分で決める自信がなく、だから千利休に頼って、茶碗の善し悪しを判断する。自分は良いと思っても、世間で笑われることを気にしてしまう。つまり専門家の決めた規格に頼ったわけです。

 女性でも、信長は、自分の好きな女性を側に置いた。ところが秀吉は、だれだれの姫君、これは信長の姪、、、などとブランドにこだわった。茶碗と同じく客観基準を求めたわけです。だから、非常に悲劇的になっていったわけです。

 ところがところが、家康の時代になると自尊の時代に戻って、再び千利休の出る幕がなくなる。今度は自尊がテーマだから、豪華さを求めるのではなく、自分は自分、、、というオリジナリティーの時代に移っていった。

 だから、現在の団塊世代の人々はちょうど秀吉と同じ位置にあるといえます。今の若者はどうですか、、、。金髪、女装、マイブーム、などなど自分は自分なんでもあり、個性の時代だもんね、、、という考え方がかなり強いですね。平気で大学出て、フリーアルバイターで生きていくし、すぐ仕事やめるし、客観視無関係、俺は俺じゃー、他人のフリ見て我が振りマイウェイじゃー、、、って感じ。家康の自尊の時代と同じとは言えないけど、「個」の時代ではあるといえます。みんなが自分勝手に生きている。だから、今の日本はまとまらないわけ。

 そういえば、昔と違って、自分に干渉してくる人が少なくなったように思う。最近「まあ、そんな仕事をして、、、」とか「地道にやりなさい、、、」「やっていけるんか」とか言われなくなった。また、他人に干渉しようという気持ちもなくなってきた。「そんなもん買うんじゃない、、、」と言っても、しっかり買ってるもんね。言うだけ損、みんな好きなように生きれば、、、って感じ。

ただ、自分は自分って考え方が強いのと、ネットワークの時代=人と人が出会う率が上がってきている、、、だから、急速に、同じ考え方の人々がネットワークで結ばれているような気がする。同じ感性の奴が同じ所に集まってきたり、、、例えばNYに引っ越せば、まったく同じ発想でNYに出てきた人と出会うはず、、、。

 これからは、規格的な発想で自分の行動を抑制するのではなく、感性の赴くまま、可能性を感じたらバシバシやっていくのが正解なんだと思うよ。ちなみに、マンガ「釣りバカ日誌」のハマちゃんは出世すると、忙しくなり好きな釣りに行けなくなり、不幸になる、、、という発想で生きているサラリーマン、瀬戸内方面への転勤を夢見ている、、、いいね、、、こういうの。

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